豊臣秀吉と秀頼

8月というと、8月3日は豊臣秀吉の後継者、秀頼の誕生日で、8月18日は天下統一を成し遂げた秀吉が生涯を閉じた命日にあたります。これを機に、改めて秀吉と秀頼の生涯を簡単にふりかえるとともに、父秀吉の秀頼に対する大きな愛情を垣間見ることの出来る手紙、死後神格化された父秀吉の神号を秀頼が自筆でしたためた書、そして秀吉を偲び捧げられた「豊国踊り」を紹介します。

 

豊臣秀吉

豊臣秀吉は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)に生まれました。身分は低かったものの、織田信長に仕えてめきめきと頭角をあらわし、やがて信長の重臣となって全国統一戦の一翼を担いました。信長が明智光秀に討たれると光秀をただちに滅ぼし、翌年にはライバル柴田勝家を破った秀吉は大坂城築城を開始し、ここを拠点に天下統一に邁進しました。躍進を重ねる秀吉の傍らには、卑賎のころから彼を支え続けた家族の姿がありました。長く実子に恵まれなかった秀吉は多くの養子をとって育てましたが、晩年待望の実子、秀頼が誕生します。そんな中、中国征服をめざして朝鮮に攻め入りますが、二度目の出兵中、幼い跡継ぎの将来を案じつつ慶長3年(1598)8月18日に62歳でこの世を去ります。

 

豊臣秀頼

文禄2年(1593)8月3日豊臣秀吉の後継者として誕生します。慶長3年(1598)に父秀吉が亡くなると、慶長5年には関ヶ原合戦が起こり、これに勝利した徳川家康は慶長8年に征夷大将軍となります。しかし大坂城には豊臣秀頼が健在で、家格の上では相変わらず豊臣家が徳川家より上位に位置しました。慶長16年に秀頼は京都・二条城で家康と会見を行ないます。立派に成長した秀頼を見て、家康は目を見張り、秀頼の上洛を歓喜して迎えた京都の人々の様子を見て、家康は自身亡き後の徳川家のことがとても心配になったと伝えられます。家康は自らの眼が黒い内に決着をつけるべく、慶長19年、秀頼が再建中であった方広寺大仏殿の鐘銘に難癖をつけて強引に大坂冬の陣を引き起こし、翌年の夏の陣で、大坂城は落城。慶長20年5月8日に、秀頼は母淀殿とともに自害し、豊臣家は滅亡しました。

 

 

・図録 テーマ展「乱世からの手紙ー大阪城天守閣収蔵古文書選ー」

P79豊臣秀吉自筆書状 豊臣秀頼宛

秀吉が大坂城中の愛児秀頼(おひろい)に送ったもの。署名には「とゝ(父)」とあります。じつは秀頼は、まだ手紙など読めない乳飲み子でした。秀吉は57歳で実子秀頼を授かり、秀吉の浮きたつ気分をこの手紙からうかがうことができます。

 

 

・図録 大阪城・上田城友好城郭提携10周年記念 特別展「真田幸村の生涯を彩った人たち」

P119豊臣秀頼自筆神号「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)秀頼十一歳」

秀頼が神格化された父の神号を自筆でしたためたもの。秀吉を祀る豊国社が秀吉ゆかりの地などに建設され、そこでは秀吉の画像・木像とともに、秀頼がしたためた「豊国大明神」の神号が祀られました。

 

 

・豊国踊り

「豊国踊り」は豊臣秀吉の七回忌にあたる慶長9年(1604)8月に、「豊国臨時祭礼(ほうこくりんじさいれい)」のクライマックスとして行われ、京都の町人1,500人が華麗な群舞を披露しました。その様子は京都・豊国神社(とよくにじんじゃ)が所蔵する「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)」などに活き活きと描かれています。

平成27年(2015)大阪城天守閣では、その「豊国祭礼図屏風」や「豊国大明神臨時御祭礼記録(とよくにだいみょうじんりんじごさいれいきろく)」などの文献史料をもとに、学術的に「豊国踊り」を復元し、今では大阪の新たな夏の風物詩として定着しつつあります。

 

 

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