慶長5年9月15日、決戦!関ヶ原

 

 天下統一の覇者・豊臣秀吉が慶長3年(1598)8月18日に62歳でその生涯を終えると、豊臣政権内部の対立が一気に表面化します。

 幼い秀頼の将来を心配した秀吉は、大々名の徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家を五大老、実務官僚の浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家を五奉行に任じ、秀吉亡き後は、彼らの合議制で豊臣政権を運営していくことを定め、とりわけ徳川家康と前田利家を両輪とする体制を作りましたが、秀吉の後を追うように、慶長4年閏3月3日に前田利家が亡くなると、徳川家康が恣に政治を行なうようになりました。

 こうした家康の行動を非難する石田三成は、慶長5年7月、家康が会津の上杉景勝征伐を掲げて出陣したのを好機とみ、前田玄以・増田長盛・長束正家の奉行衆と語らい、五大老の一人毛利輝元を総大将に迎えて決起しました。三成らの西軍は畿内の対立勢力を次々に攻撃し、一方、家康率いる東軍は福島正則・池田輝政・黒田長政ら、三成に反感を抱く大名たちの協力を取り付け、上方に向けて引き返しました。同年9月15日、両軍は近江との国境に近い、美濃国の関ヶ原において激突しました。これが関ヶ原合戦で、戦局は当初互角だったものの、西軍の小早川秀秋などの寝返りによって東軍が大勝利を収めました。

 家康はその後も表面上は豊臣秀頼を主君として尊重する態度をとりつづけましたが、3年後の慶長8年2月12日には朝廷から征夷大将軍に任じられて幕府を開き、大坂城の豊臣秀頼との関係はたいへん微妙なものとなり、やがて慶長19年には大坂冬の陣が起こり、翌年の夏の陣で大坂城は落城し、豊臣家は滅亡の憂き目をみることとなります。

 

 大阪城オンラインショップではこれを機に、「関ヶ原合戦図屏風」(縮小版)を販売します。

 「関ヶ原合戦図屏風」や大阪城天守閣が発行する図録に掲載している史料をご覧いただき、この合戦に関わった多くの武将たちの動きや思惑に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

もしもこの合戦で西軍が勝利していたら…現代では大阪が首都となり、今年は大阪オリンピックが開催されていたのでしょうか・・・。

 

「関ヶ原合戦図屏風」(縮小版)

 

図録「テーマ展 いくさ場の光景-大阪城天守閣収蔵戦国合戦図屏風展-」

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