テーマ展「秀吉の生涯」

 大阪城天守閣では、令和2年10月10日(土曜日)から11月29日(日曜日)まで、大阪城天守閣内3・4階展示室において「テーマ展 秀吉の生涯」を開催(令和2年8月28日付け報道発表済み)しますが、このほど展示内容の詳細が決定しましたのでお知らせします。

 

テーマ展 秀吉の生涯

庶民から身をおこして戦国乱世を統一した豊臣秀吉は、日本史上でも屈指の人気と知名度を誇る人物です。秀吉の事績(じせき)は、彼自身が生前さかんに宣伝し、また江戸時代以降もさまざまな文芸作品にとりあげられるなかで脚色され、虚実入り混じった形で伝えられてきました。

幾多の戦いを勝ち抜き、比類のない権力者として君臨した秀吉の生涯が、ドラマチックなものだったことは疑いないでしょう。その実像の片鱗は、彼自身の言葉がつづられた手紙、身の回りを飾った遺品、あるいは彼の周囲の人々が残した文書などからうかがい知ることができます。

それでは、秀吉のほんとうの経歴・業績はいかなるものだったのでしょうか。人柄はどうだったのでしょうか。また彼の躍進は、どのような人々に支えられていたのでしょうか。おなじみのストーリーとは異なる、意外な事実が見えてくるかもしれません。

本展では大阪城天守閣の収蔵する数々の名品や新出資料を通して秀吉の生涯を追い、魅力の尽きないその人物像に迫ります。

なお、本館蔵の秀吉関係資料「木下家文書」13点が、令和2年9月30日(水曜日)に国の重要文化財に指定されました。このうち、秀吉自筆の辞世和歌詠草(じせいわかえいそう)をはじめとする5点の資料を本展で指定後初めて公開します。

 

 

開催概要

1.名称          テーマ展 秀吉の生涯

2.会期          令和2年10月10日(土曜日)から11月29日(日曜日)まで

3.時間          9時から17時まで ※入館は閉館の30分前まで

4.主催          大阪城天守閣

5.会場          大阪城天守閣3・4階展示室

                〒540-0002 大阪市中央区大阪城1番1号

                電話:06-6941-3044 ファックス:06-6941-2197

                ホームページ:https://www.osakacastle.net/

6.入館料        大人600円 中学生以下、大阪市在住65歳以上の方(要証明)、

                障がい者手帳等ご持参の方は無料

                ※このテーマ展は大阪城天守閣の平常入館料でご覧いただけます。

7.出品点数      139点  ■出品目録(PDF:577KB)

8.主要展示品    「主要展示品解説」のとおり

 

※新型コロナウイルス感染予防のため、事業が中止・変更になる可能性や、お客様のご入館をお断りする場合があります。

最新情報はホームページをご覧いただくか、お問合せください。

 

 

■主要展示品解説

1 羽柴秀吉書状 (天正5年)12月5日付 小川五右衛門尉(おがわごえもんのじょう)宛 (出品番号11)  大阪城天守閣蔵

 

中国地方の有力大名毛利氏と織田信長との関係が悪化する中、秀吉は天正5年(1577)、信長に命じられて播磨平定に着手する。本状はその状況を報じたもので、宛先の小川五右衛門尉は、信長やその側近と情報をやり取りすることができた人物とみられるが詳細は不明。

ここで秀吉は、11月末から12月初旬にかけて行った佐用城(福原城)・上月(こうづき)城(七条城)攻略を詳細に報じた。二条目では軍師とされる竹中半兵衛と小寺(黒田)官兵衛の両名が佐用城攻めで活躍したことを、三条目では上月城攻めにおいて毛利方に属する宇喜多(直家)勢と対戦したことを報告する。また四条目では、上月城攻略によって敵兵を皆殺しとし、女性や子供を国境にて磔(はりつけ)や串刺しにしたと述べ、近隣の諸勢力を震え上がらせた自身の残虐行為を自慢する。

 

(釈文)

「          羽筑

 小□五右衛門尉殿   秀吉

        □報     」

遠路為見舞預示候。」誠以御懇之至令祝」着候。殊更紙袋」并馬衣給候。如承候、」数寄ニ合たる御音信」感し入申候。

一、此表之儀、度々村長州」迄申入候。定而可有其」聞へ候。播州人質事、」但馬表之儀、申旧候。

一、去廿七日作州堺((境))相働候」処ニ、播州佐用郡内ニ」敵城三ヶ所候、其内福原」城より出人数相防候。」然者竹中半兵衛・小寺」官兵衛両人先へ遣候処、」於城下及一戦、数多討取候。」我等者平塚三郎兵衛、城主」討捕候。彼弟助合候処、」同討捕候。以其競城中」乗崩、悉不残討果候。則」我等令入城候事。

一、右福原城より一里計」先ニ七条と申者城候。」翌日廿八日押寄取巻、」水手取候処、為後巻宇喜多」罷出候条、城々手当置候て」切懸、及一戦、即時切崩、」備前堺まて三里計候間」追付、首数六百十九討」取候。夜ニ入候故宇喜多」不討留候段無念候事。

一、右合戦より引返し七条城」弥取詰、水之手取候処ニ、」色々雖侘事候、此以来」見こりニ候間、一切不能」承引、かへりしゝかき」三重まてゆい候て、諸口より」しより申付、一昨日三日ニ」乗入、悉刎首、其上」女子弐百余、備・作・播磨」三ヶ国堺目ニ子共をハ」くしニさし、女をハ」はた物ニかけ候事。

一、最前合戦時之首」塚、今度七条城討果」首塚、二ツつかせ候て、」此表平均ニ申付候。然間、」播州ニ至て打入申候条、」軈而以面拝可申承候事。

一、今度其方法躰ニ付て」御領中被遣候由、珍重」存候。彼是期面拝」時、相積儀可申述候。」恐々謹言

  十二月五日 秀吉(花押)

   小川五右衛門尉殿 御返報

 

 

 

2 富士御神火文黒黄羅紗陣羽織(ふじごしんかもんくろきらしゃじんばおり) (出品番号78)  大阪城天守閣蔵

 

秀吉所用と伝える陣羽織。暗黒の背景に黄色の富士山があざやかに映え、山頂からは噴煙が立ちのぼる。ネックラインと袖ぐりのフリルや、派手な色彩の羅紗(らしゃ)は西洋文化の影響。襟(えり)から前身(まえみ)のあわせ部分にかけては、明(みん)国から渡来の銀襴(ぎんらん)がぜいたくに使用されている。

 秀吉は天正13年(1585)に関白になるころ、関東の領主たちに「長年、富士山をひと目見たいと望んでいる」と書き送り、見物がてらの関東出馬を予告した。5年後の小田原北条攻めで、その望みは実現。道中、「都にて聞きしは事の数ならで 雲井にたかき富士のね((嶺))の雪」と感激の和歌を自作した。ただ、織田信長の家臣となる以前の若き日に、秀吉が遠江(とおとうみ)頭陀寺(ずだじ)城主の松下加兵衛に仕えていたとすれば、そのころにも現在の静岡県浜松市内から富士山を見ていたはずなのだが。

 

 

3 豊臣秀吉朱印状 天正20年10月2日付 丹波中納言宛 (出品番号104)  大阪城天守閣蔵

 

秀吉が11歳の養子秀俊(ひでとし)(のちの小早川秀秋)に与えた訓戒状。「学問に精を出せ」「お歯黒は二日に一度ずつ」「五日に一度爪を切れ」など日常の心がけを細かく指示し、「これらを守らないと絶交する」とおどしている。

北政所(きたのまんどころ)おねの兄の子である秀俊は、生まれてまもなく秀吉夫婦に引き取られ、秀吉の後継者候補として育てられた。独特のユーモアを交えて秀俊を教育していたことが本状からうかがえる。

 

(釈文)

    覚 

一、学問に心かけらるへき事。

一、鷹野むよう((無用))たるへき事。

一、きやう((行))水つほね((局))かたにてすへき事。

一、はくろ((歯黒))二日ニ一と((度))つゝつけらるへき事。

一、五日に一度つめ((爪))とるへき事。

付、近所ニ召遣候者共、身持きれいニ可申付事。

一、小袖うつくしき物をゑもん((衣紋))たゝ敷((正しく))」き((着))らるへき事。

一、諸事山口意見ニつくへき事。

右条々あひそむ((相背))くに付てハ」御中((仲))をたかは((違わ))るへき条、よく/\」分別しかるへく候也。

  天正廿年十月二日(朱印)

   丹波中納言殿

 

 

4 刀 銘 藤嶋 (出品番号128)  長束嚴氏寄贈 大阪城天守閣蔵

 

長束正家(なつかまさいえ)の所用と伝える刀で、熊本藩細川家に仕えた正家の子孫の家に伝来したもの。南北朝期から江戸末期まで続く加賀の刀工・藤島友重の系統に属し、室町後期の制作とみられる。

正家はもともと丹羽長秀の家臣だったが、理財の能力を秀吉に買われて直臣となり、主に豊臣家直轄領の算用(決算)を担った。政権の中枢に位置し、秀吉の死の直前に五奉行の一人に名を連ねたが、関ヶ原合戦で西軍に協力したため居城の近江水口(みなくち)を攻められて自害した。

 

 

5 重要文化財 豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草 (出品番号131)  大阪城天守閣蔵

 

  つゆ((露))とを((落))ち つゆ((露))とき((消))へにし わかみ((我が身))かな

なにわの事も ゆめ((夢))の又ゆめ((夢)) 松

 有名な豊臣秀吉の辞世和歌で、62年の生涯を振り返り、「朝露のようにはかない命であった。大坂でのことも全ての事が夢のまた夢であった」と、万感込めて詠じている。「なにわの事も」は、「何もかも」と「難波(なにわ)(大坂)の事」の掛詞(かけことば)で、「松」は秀吉の雅号である。秀吉正室北政所(きたのまんどころ)おね(高台院(こうだいいん))の実家である備中(びっちゅう)足守(あしもり)藩主の木下家に伝来した。

 江戸時代前期、真田増誉(さなだぞうよ)の著(あら)わした『明良洪範(めいりょうこうはん)』という史料によれば、秀吉は、天正15年(1587)に京都・聚楽第(じゅらくてい)が完成した折にこの歌を詠(よ)み、いざという時にすぐ公表できるよう侍女孝蔵主(こうぞうす)に保管させていたという。

 

 

6 豊臣秀吉画像 (出品番号138)  個人蔵

 

新出の秀吉画像。上部に建仁寺294世の古㵎慈稽(こかんじけい)のしたためた賛があり、それにより本画像が慶長11年(1606)に長谷川守尚(もりなお)によって造進されたものであることがわかる。

長谷川守尚は、織田信長・豊臣秀吉に仕え、茶人・絵師としても活躍した長谷川宗仁(そうにん)の子で、自身も秀吉に仕え、第一次朝鮮出兵の際には父とともに肥前名護屋城に在陣し、伏見城築城工事にも従事した。

京都・建仁寺の塔頭(たっちゅう)・大統院には、慶長12年に製作された守尚の寿像(じゅぞう)(生前に描かれた肖像画)が伝来し、本品と同じく古澗慈稽の賛をしたため、守尚が秀吉のもとで活躍したことが記されている。『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』などには「守知(もりとも)」という諱(いみな)で記されている。

本品の面貌部は、宇和島伊達文化保存会本(重要文化財)の系統に属するが、同系統の作品の多くで秀吉は唐冠(とうかん)を被り直衣布袴(のうしほうこ)を着用するのに対し、本品は垂纓(すいえい)の冠を被り束帯(そくたい)を着用するのが珍しい。同じ系統の面貌(めんぼう)でありながら、垂纓の冠、束帯姿で描かれるのは、他に逸翁(いつおう)美術館所蔵の秀吉画像の下絵(重要文化財)と真田昌幸の署名・花押(かおう)のある高野山・蓮華定院(れんげじょういん)本のみである。

 

開催日時 令和2年10月10日(土)~11月29日(日)
開催場所 大阪城天守閣 3・4階展示室

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