特別展「豊臣外交」(詳細)
特別展ポスター画像

大阪城天守閣は、令和元年10月12日(土)から11月17日(日)まで、大阪城天守閣内3・4階展示室において「特別展 豊臣外交」を開催(令和元年8月30日報道発表済)するにあたり、本展の詳細が決まりましたのでお知らせいたします。

 

特別展 豊臣外交

 豊臣秀吉が国内を統一し、治めた時代にわが国は、前後の時代とくらべてより広く、深く、外国との交際をもちました。積極的な海外交流が、豊臣時代の一つの特色といってよいでしょう。日本の社会はこれに大きな影響をうけ、新しい文化が生み出されました。わが国の文物も輸出され、異国の地で愛好されました。

 では秀吉その人は、海外の国々とどのような関係を結ぼうとしていたのでしょうか。

 秀吉が外国へ送った書簡のほとんどは尊大で、高圧的な内容と形式をそなえていました。じっさい朝鮮には大軍を派遣し、その国土に甚大な損害を与えました。

 とはいえ、外国に対する秀吉の姿勢がいつでも強硬だったわけではありません。そこには妥協があり、オモテとウラの使いわけがあり、すなわち外交がありました。秀吉の周辺にもさまざまな対外観の持ち主がおり、秀吉自身のなかでも対外観の揺らぎがあり、それゆえ外交の方針にも相当の振れ幅がありました。

 本展ではこの時代の対外交流と摩擦に目を向けつつ、虚々実々の豊臣外交を追いかけてみたいと思います。

 

開催概要

1.名称          特別展 豊臣外交

2.会期          令和元年10月12日(土曜日)から11月17日(日曜日)まで

3.時間          9時から17時まで

                 注)入館は閉館の30分前まで

4.主催          大阪城天守閣

5.会場          大阪城天守閣3・4階展示室

                 〒540-0002 大阪市中央区大阪城1番1号

                 電話:06-6941-3044 ファックス:06-6941-2197

                 ホームページ:https://www.osakacastle.net/

6.入館料      大人600円 中学生以下、大阪市在住65歳以上の方(要証明)、障がい者手帳等ご持参の方は無料

       注)大阪城天守閣の平常入館料

7.出品点数      89点(別紙「出品目録」のとおり)   ◆豊臣外交_出品目録(PDF)

8.主要展示品    「主要展示品解説」のとおり

 

 

◆主要展示品解説

1 名古屋市指定文化財 ビロードマント(出品番号2)

愛知・名古屋市秀吉清正記念館蔵

 輸入品のマントを陣羽織に仕立て直したもの。ビロード地に花模様や花唐草模様が刺繍され、異国情緒が漂う。豊臣秀吉の所用と伝えられ、正妻の北政所(きたのまんどころ)おねが秀吉没後、元和9年(1623)に養子とした木下利次の子孫の家系に伝来した。利次は北政所の兄木下家定の孫で、幼少時より北政所に養育されていた。同家には本品のほか、北政所が所持していた秀吉ゆかりの多くの品々が伝わっている。

 ビロードとは14世紀から16世紀にかけてのルネサンス期にイタリアを中心としてヨーロッパ各地へ広まった織物。なめらかな肌触りと深い光沢が上流階級の人々を魅了し、日本には16世紀に伝来して武将たちに珍重された。本品は東アジア貿易の活発化を背景として、中国で生産されたものかと推定されている。

 名古屋市指定文化財 ビロードマント

 

 

2 山口県指定文化財 (とう)冠形(かんなり)(かぶと)(出品番号7)

                                 山口・毛利博物館蔵

 毛利輝元が豊臣秀吉から拝領したと伝える「(かわ)(つつみ)二枚(にまい)(どう)具足(ぐそく)」の一部をなす兜である。毛利家は中国地方を制覇した有力大名で、輝元は豊臣政権の五大老に列した。

 戦国時代から天下統一の時代にいたる16世紀から17世紀にかけ、着用する武将の好みを反映した、奇抜でおしゃれな「変わり兜」が数多く作られた。本品もその一つで、中国の貴族や官人のかぶりものである唐冠を模した形状である。

 唐冠の特徴は左右に張り出す(えい)(冠の後ろに付ける飾り)であるが、本品はそれを大きく誇張し、(わき)(だて)として表現している。

 秀吉の死後まもなく制作された肖像画の秀吉は、日本の伝統的な冠でなく、唐冠をかぶっていることが多い。秀吉は第1次朝鮮出兵の休戦期だった文禄4年(1595)春、唐冠を着用することについて天皇の許可を得ていた。秀吉にとって中国は、尊敬すべき権威だったのだろう。

山口県指定文化財 唐冠形兜※展示は兜のみ

 

 

3 高山右近共(たかやまうこんとも)(づつ)茶杓(ちゃしゃく) 銘 御坊へ(出品番号40)

                                  兵庫・滴翠美術館蔵

 キリシタン大名として有名な高山右近の自作の茶杓。竹節の裏側を削りこみ、利休流の「(あり)(ごし)」とよばれる形状に仕上げている。茶杓をおさめる筒は竹の地下茎を利用して作り、表面には漆で「御坊へ 花十」と銘を書く。「花十」は一説に「花クルス」と読むという。

 右近は「利休七哲」(千利休の高弟七人)の一人に数えられる茶人だった。右近と親交があったイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスは、右近が茶の湯の道で「日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されて」いたと記録する。ロドリゲスによれば右近は「この道に身を投じて追求すれば道徳と隠棲の大きな助けになる」としばしば語り、デウス(神)に祈るため、茶室に聖画を置いて閉じこもることが習慣だったという。

 信仰と通じていた右近の茶の湯は「きれい茶」と呼ばれ、超自然的な清らかさを特徴とした。

 摂津高槻城主(のち明石城主)の高山右近は、父の影響で、若くしてキリスト教に入信。信仰への情熱はきわだっており、黒田官兵衛や蒲生氏郷など、右近の働きかけでキリシタンになった武将も多い。秀吉から棄教を命じられたさいには大名身分を捨て、キリシタンとして生きる道を選んだ。さらに秀吉没後、徳川家康からは棄教か、国外追放かという選択を迫られた。すでに60歳をこえ、過酷な長旅に衰弱した右近はマニラ到着の40日後、熱病にかかって没した。

高山右近共筒茶杓 銘 御坊へ

 

 

4 小浜市指定文化財 山中長俊書状 (天正20年)5月18日付 御ひかし・御きやくしん宛 (出品番号56)

                               福井・小浜市教育委員会蔵

 朝鮮の首都陥落の報告を肥前名護屋城で聞いた秀吉が、その4日後、天正20年(1592)5月18日付けで朝鮮の戦況と今後の大陸支配の方針を大坂城の正妻おねに知らせた書状。本状をしたためた山中長俊は秀吉の近臣で、あて名の「ひがし」と「きゃくじん」はおねの侍女。

                                                 
 文中には「大唐(たいとう)(中国)を征服しだい、当関白殿(豊臣秀次)へお渡しする」とあり、中国大陸の支配は甥の秀次が担当することになる。「日本の帝王様を唐の都にすえられる」とあるのは、天皇を北京へ移し、そこを新しい日本帝国の首都とする構想である。「上様(秀吉)は北京の都に御座所(ござしょ)を置いたのち、日本の船着き場である寧波(ニンポー)に住居を定める」というのが秀吉自身の将来で、中国の南岸、海上交通の要地で貿易に関与する。まもなくおねも呼び寄せるという。朝鮮在陣中の大名衆には、「天竺(てんじく)を切り取る(インドを占領する)」ことが期待された。

 小浜市指定文化財 山中長俊書状(天正20年)5月18日付 ひがし・きゃくじん宛※写真は末尾部分

 

 

 

【釈文(抄)】

一、たいたう(大唐)おほせつけられしたい、たうくわんはく(当関白)とのへ御わたしなさるへきよし候まゝ、らい正月二月時分ニその御よういおほせこされ候事。

一、につほん(日本)のていわう(帝王)さまをから(唐)のミやこ(都)へすゑさせられへきあひた、その御ようい(用意)あるへきよし、おほせあけられ、すなハちたいり(内裏)御りやうしよとして、ミやこまハりにて十かこく御しん上なされ、そのうちにてしよくけしゆ(諸公家衆)へもしはい(支配)なさるへく候、したひのしゆ十さうはい(増倍)、上のしゆハしんたひ/\により申へきよし御意候。

 

 

5 重要文化財 (たい)大明(たいみん)(こく)和親(わしん)交渉(こうしょう)切紙(きりがみ))(出品番号72)

                                        個人蔵

 豊臣秀吉は文禄2年(1593)6月、肥前名護屋城において明国の講和使節に有名な和議七ヶ条を提示する。その内容は、明国に対しては皇帝の娘を天皇の后妃(こうひ)とすることや貿易など、通好和親を求め、朝鮮に対しては領土の南半分の割譲、王子が人質として来日することなど、服属をせまるものだった。

 和議七ヶ条の提示にさきだち、明国使節と秀吉側近の外交僧とのあいだで講和条件をめぐる交渉がもたれた。その筆談記録が、秀吉の正妻おねの実家木下家に伝来した「豊臣家文書」のなかに残されている。外交僧が担当した交渉の内容を秀吉も承知していたのである。

 日本側は、「両件」のうち一件をも明国が認めないなら和親は成就しがたい、と述べている。この「両件」とは、明国皇女と天皇の結婚か、朝鮮南半分割譲か、ということである。

 明国側は、二事(両件)が認められぬ場合、明皇帝が太閤を冊封(さくほう)(日本国王に任命)したら太閤は受諾するかどうか、と代替案を打診している。

 これに対する日本側の回答は、両件のうち一条も認められないのなら決着しない、冊封など必要ない、というものだった。

                                                 
 日本側としては七ヶ条の最重要項目は明国皇女と天皇の結婚であり、それを実現するための脅迫文言のようなかたちで、朝鮮南半分の割譲要求を掲げていた。

重要文化財 対大明交渉記録切紙※写真は一部分

 

 

 

【釈文(抄)】

和親者両件之中一条無許諾者、決難成。自大明不可及冊封。只両件不允之返書、以使者可言之。然則大閤自将而到釜山浦、構城郭、其次到京畿、築城雖歴両三年、到遼東可進兵。自大明亦出将師可挑戦也。於渡使介於此地、雖為何時捧今所遣旌旗二本可透過陣営也。

 

開催日時 令和元年10月12日(土)~11月17日(日)
開催場所 大阪城天守閣 3・4階展示室

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