「大阪城天守閣復興90周年記念 テーマ展 豊臣時代」(詳細)

 大阪城天守閣では、令和3年10月9日(土曜日)から12月19日(日曜日)まで、大阪城天守閣内3・4階展示室において「大阪城天守閣復興90周年記念 テーマ展 豊臣時代」を開催(令和3年8月24日報道発表済み)しますが、このほど展示内容の詳細が決定しましたのでお知らせします。

 

大阪城天守閣復興90周年記念 テーマ展 豊臣時代

 大阪城天守閣は、令和3年(2021)11月7日をもって、昭和6年(1931)11月7日の竣工以来90周年の節目を迎えます。

 大阪市が東京市の人口をしのぐ日本一の大都市となった大正14年(1925)、「大大阪記念博覧会」が開催され、大阪城の天守台上に建てられた仮設の展示施設「豊公館」には、多くの市民が豊臣秀吉ゆかりの品々を観覧すべく詰めかけました。博覧会の盛況は、昭和天皇即位の記念として大阪城天守閣を復興する構想につながります。大阪市が天守閣復興計画を発表し、寄付の募集を始めるや、事業費は半年のうちに民間から集まり、昭和6年11月7日に竣工の日を迎えました。復興の趣意書には「豊太閤の偉業の顕彰」が謳われ、復興記念として天守閣で開催された「豊公特別展」も多くの観覧者を集めました。これら一連の出来事を目にした当時の市民は、秀吉の輝かしい生涯や、繁栄する往時の大坂に思いを馳せたことでしょう。

 秀吉の事績は戦後になると見直しが進められ、手放しでの賛美とはいかなくなりましたが、その歴史的意義はいっそう深く認識されるようになったといえます。そして、秀吉ひとりにとどまらず、彼の周辺で活動した大名、女性、その他さまざまな立場の人々にまで関心が寄せられています。この時代の体験者である、そうした有名無名の人々から見て、豊臣家が存続した約30年間はどのような時代だったのでしょうか。

 大阪城天守閣は復興以来、博物館施設としての歩みを続け、今日にいたっています。そして当館が収集してきた多様な文化財のなかでも、秀吉とその時代にかかわる資料はわが国を代表する一大コレクションとなっています。復興90周年を記念する本展では、天下統一の拠点大坂城の築造が始まった天正11年(1583)から豊臣家が滅亡する元和元年(1615)にいたる期間を主に取り上げ、「豊臣時代」と題してその諸相を探ります。

 

開催概要

1.名称           大阪城天守閣復興90周年記念 テーマ展 豊臣時代

2.会期           令和3年10月9日(土曜日)から12月19日(日曜日)まで

3.時間           9時から17時まで

                  ※入館は閉館の30分前まで

4.会場           大阪城天守閣3・4階展示室(大阪市中央区大阪城1-1

5.入館料         大人600円

                  中学生以下、大阪市在住65歳以上の方(要証明)、障がい者手帳等ご持参の方は無料

                  ※このテーマ展は大阪城天守閣の通常入館料でご覧いただけます。

6.出品点数      125点(別紙「 出品目録」のとおり)

7.主要展示品    別紙「主要展示品解説」のとおり

8.主催           大阪城天守閣

9.問合せ先       大阪城天守閣

                住所:〒540-0002 大阪市中央区大阪城1-1

        電話:06-6941-3044(9時から17時まで) ファックス:06-6941-2197

                ホームページ:https://www.osakacastle.net/

10.その他        新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、事業が中止・変更になる可能性や、お客様のご入館をお断りする場合があります。最新情報は大阪城天守閣ホームページをご覧いただくか、上記問合せ先にお問合せください。

 

 

■主要展示品解説

1 羽柴秀吉大坂築城掟書 天正11年8月28日付 前野将右衛門尉(まえのしょうえもんのじょう)宛 (出品番号3)

                                    大阪城天守閣蔵

 天正11年(1583)、池田恒興から明け渡しを受け、大坂城を手に入れた秀吉が石垣普請を始めるにあたり、8月28日付けで家臣の前野長康に指示した掟書。内容は、①採石場の石に誰かが印を付けていても、構わず取ってきてよい、②作業期間中は採石場に野宿しても大坂の宿所を利用してもよい、③石を運び終えて帰る者や軽い石を運ぶ者は、大きな石を運ぶ者に道を譲ること、④喧嘩口論をしないこと、⑤百姓らに理不尽な要求をしないこと、となっている。

 普請は本状の直後、9月1日に正式着工された。その日、堺から京への帰途、生駒山麓の河内路を通った公卿吉田兼見(かねみ)は、「里々山々、石を取る人足・奉行人等数千人、数を知らず」と、信貴・生駒の周辺が石切りや石運びに従事する人であふれかえっている様子を書き留めている。

 

(釈文)

   普請石持付而掟

一、石持事、書付雖在之、とり次第たるへし。

但、よせ候て奉行を付置候石ハ取間敷事。

一、宿事、在々を取候ハゝ、石のとり場遠候条、」其石場に野陣をはり候歟、又ハ大坂ニ宿」在之衆ハ、面々宿より被出候共、其身覚悟」次第たるへき事。

一、いしもち候て帰候者ハ、かたより候て可通。大石・」おもき石ニハ、かろき石かたよるへき事。

一、けんくわ口論於在之者、曲事たるへし。

但、一方有堪忍、筑前守ニ於被言上者、雑」言仕候者くせことたるへき事。

一、下々者百姓にたいし不謂族申懸候ハゝ、其」者可為曲事候条、右忰者可有成敗処、」あはれミをいたし用捨於在之者、科人之」事ハ不及申、其主人まて可為越度事。

右条々定置所如件。

  天正十一年八月廿八日 筑前守(花押)

   前野将右衛門尉殿

 

 

2 重要文化財 織田信雄等(おだのぶかつら)27名連署血判起請文(れんしょけっぱんきしょうもん) 文禄4年7月20日付 宮部中務法印等(みやべなかつかさほういんら)6名宛 (出品番号31)

                               大阪城天守閣蔵

 文禄4年(1595)7月、謀叛の容疑で甥の関白秀次を粛清した秀吉は、愛児おひろい(秀頼)への忠誠を大名たちに誓わせた。秀次切腹の5日後の日付けで作成された本状は、そのあかしとして提出された起請文である。

 誓約内容は、おひろいに裏切りの心をもたず、おひろいのためになるよう奉公すること(第一条)、おひろいを軽んじたり、秀吉のおきてにそむいたりした者に加担しないこと(第二条)、秀吉の法令を遵守すること(第三条)、秀吉から恩義をこうむったことを子孫まで申し伝え、豊臣家に忠誠をつくすこと(第四条)、私恨から豊臣家への不平不満をもたないこと(第五条)、の五ヶ条。

 織田信雄以下27大名が、もし本状の内容にいつわりがあれば神罰により地獄に落ち、未来永劫(えいごう)、浮かぶことはない、と血判をすえ誓約する。

 

(釈文)

   敬白天罸霊社上巻起請文前書事

一、御ひろい様へ対し奉り聊表裏別心を」不存、御為可然様ニ致覚悟御奉公可申上事。

一、御ひろい様之儀、疎略を存、 大閤様御置目を」相背ものにをいてハ、縦雖為縁者親類知音、」其者と不可組仕候。其上御置目相背者、御糺」明之刻、誰々の儀たりといふとも見かくし、」聞かくさす有様之通可申上候事。

一、諸事 大閤様御法度御置目之通、無相違」まもりたてまつるへき事。

一、大閤様御恩深重蒙申候間、面々一世之うちハ」不及申上、子々孫々迄も申伝、公儀之御ため」をろかに不存、無二ニ可奉尽忠功事。

一、諸はうはい((朋輩))私之遺恨を以、 公儀への御述懐」存ましく候。下々出入之儀者、互せんさくの上を」以、御批判次第ニ各御異見にもれ申ましき事。

右条々若私曲偽於御座候ハ、此霊社上巻起請文」御罸深厚ニ罷蒙、今生にてハ白癩・黒癩の重」病をうけ、弓箭之冥加七代まてつきはて、於来」世者、阿鼻無間地獄に堕罪し、未来永功」浮事不可有之者也。仍前書如件。

 文禄四年七月廿日

(起請文言省略)

  文禄四乙未七月廿日 羽柴東郷侍従((長谷川秀一))(血判・花押)」羽柴伊奈侍従((京極高知))(血判・花押)」羽柴能登侍従((前田利政))(血判・花押)」羽柴安房侍従」

井伊侍従((井伊直政))(血判・花押)」羽柴出羽侍従((最上義光))(血判・花押)」

羽柴土佐侍従((長宗我部元親))(血判・花押)」羽柴常陸侍従」羽柴薩摩侍従」羽柴左近侍従((立花宗茂))(血判・花押)」羽柴金山侍従((森忠政))(血判・花押)」          羽柴伊賀侍従((筒井定次))(血判・花押)」羽柴郡上侍従((稲葉貞通))(血判・花押)」羽柴北庄侍従((堀秀治))(血判・花押)」羽柴松任侍従((丹羽長重))(血判・花押)」羽柴吉田侍従((池田輝政))(血判・花押)」羽柴京極侍従((京極高次))(血判・花押)」      羽柴若狭侍従((木下勝俊))(血判・花押)」羽柴常陸侍従((佐竹義宣))(血判・花押)」羽柴結城少将((結城秀康))(血判・花押)」安房侍従((里見義康))(血判・花押)」

羽柴越中少将((前田利長))(血判・花押)」羽柴丹後少将((細川忠興))(血判・花押)」         羽柴安芸宰相((毛利秀元))(血判・花押)」羽柴岐阜中納言((織田秀信))(血判・花押)」羽柴越後中納言((上杉景勝))(血判・花押)」羽柴江戸中納言((徳川秀忠))(血判・花押)」羽柴筑前中納言((小早川秀秋))(血判・花押)」羽柴大野宰相((織田秀雄))(血判・花押)」

常真((織田信雄))(血判・花押)

   宮部中務法印

   民部卿法印

   富田左近将監殿

   増田右衛門尉殿

   石田治部少輔殿

   長束大蔵太輔殿

 

 

 

3 刀 銘 (三葉葵紋(みつばあおいもん))以南蛮鉄於武州江戸(なんばんてつをもってぶしゅうえどにおいて)越前康継(えちぜんやすつぐ) (出品番号51)

                                  大阪・髙原家蔵

 徳川家康に技量をみとめられ、そのお抱え工となった康継の作品。

康継は、越前で結城秀康(ゆうきひでやす)(家康の次男)に仕えていたころには「肥後大掾(だいじょう)下坂」と称していたが、慶長13年(1608)ころ家康と将軍秀忠に召されて江戸で作刀、家康から名前の一字「康」と徳川家の三葉葵紋をたまわり、以後は「康継」と名乗った。本品にも三葉葵紋を彫りこんでいる。

銘文には「南蛮鉄をもって、武州江戸において」作ったと刻まれる。「南蛮鉄」とは幕府がイギリス人やオランダ人を通じて輸入した、おもにインド産の鉄のこと。康継は、この南蛮鉄を用いて多くの刀を制作した。

 

 

 

 

4 秋草蒔絵硯箱(あきくさまきえすずりばこ) (出品番号59)                               

大阪城天守閣蔵

 九州の五島列島を本拠とした五島玄雅(ごとうはるまさ)が秀吉から拝領した重宝として、肥前福江藩主五島家に伝来したもの。もとは秀吉が酒の燗(かん)をするのに用いた鍋ぶたで、拝領後、硯箱に仕立てなおされたという。

 菊や萩、ススキなど、秋の草花を枠いっぱいに描いている。勢いよくのびた葉の上をたくさんの露玉がころがり、飛散する。桃山時代に上流階級で愛好された高台寺蒔絵を代表する優品である。

 

 

5 伊予札腰取二枚胴具足(いよざねこしとりにまいどうぐそく) (出品番号76)

                                    大阪城天守閣蔵

 美濃今尾城主の市橋長勝(いちはしながかつ)が関ヶ原合戦の際に着用したと伝わる。兜鉢は金箔押しの烏(え)帽(ぼ)子(し)形(なり)で大きな二枚貝の脇立(わきだて)をつけ、二の腕辺りまでの長い毛を垂らす奇抜な意匠である。全体的に見ても金箔押し、黒漆塗り、錆(さび)塗りを使い分け、変化に富んでいる。

 揖斐川流域の今尾城(現、岐阜県海津市)は西軍の根拠地大垣城に近い。家康の会津攻めに従軍し東軍に属した長勝は、福島正則らとともに美濃へ先行し、今尾よりさらに大垣に近い福束(ふくづか)城(現、岐阜県安八郡)を攻略。これによって西軍が伊勢方面と大垣の間で連絡することを妨害した。この功績を認められ、戦後領知高は2万石に倍増した。

 

 

6 重要文化財 大坂夏の陣図屏風 (出品番号125)

                                   大阪城天守閣蔵

 慶長20年(1615)5月7日、大坂城南の上町台地一帯で繰り広げられた大坂の陣最後の決戦の様子を描いた屏風。

 6曲1双からなる本品は、右隻にこの日の両軍の戦いと落城目前の大坂城を、左隻に戦禍から逃れる人々の混乱を描く。これを所蔵した福岡藩主黒田家の資料では、藩祖長政が制作を命じ、八郎兵衛(はちろべえ)、久左衛門(きゅうざえもん)なる絵師たちの手になるものと伝えるが、その他にも諸説が提示されている。

 画中には徳川家康や真田幸村など20名を超える参戦武将の姿が確認でき、彼らの武勇や、大坂落城、豊臣家滅亡という歴史的瞬間を後世に伝えている。一方で、名もなき民衆の受難を同等の主題として取り上げるというのは類を見ない。依頼主ないし絵師の意図がどこにあるのか、いまだ多くの謎を秘めた作品だが、戦国合戦図屏風として異例の傑作であることは疑いない。

 

 

開催日時 令和3年10月9日(土)~12月19日(日)
開催場所 大阪城天守閣3・4階展示室

ページTOP