大阪城・上田城友好城郭提携10周年記念 特別展 「真田幸村の生涯を彩った人たち」
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大阪城天守閣では、平成28年10月8日(土曜日)から11月27日(日曜日)まで、天守閣内3・4階展示室において「大阪城・上田城友好城郭提携10周年記念 特別展 真田幸村の生涯を彩った人たち」を開催します。

大阪城は平成18年(2006)10月10日、真田幸村(信繁)が取り持つ歴史の縁により上田城と友好城郭提携を結びました。本展は友好城郭提携10周年を記念した開催となります。

なお、本特別展を開催している平成28年10月8日(土曜日)から10日(月曜日・祝日)までの3日間は、「大河ドラマ「真田丸」の舞台~大阪城の秋まつり2016~」を開催しています。(平成28年9月1日報道発表済)

 

【開催概要】

真田幸村は戦国から天下統一の時代を生き、慶長19年(1614)、大坂冬の陣が起こるやさっそうと歴史の表舞台に登場して、翌年の夏の陣で討死をとげました。配流先の紀州九度山から劣勢の豊臣家のもとへはせ参じ、冬の陣では真田丸を拠点に徳川の大軍をほんろうし、夏の陣では徳川家康の本陣に捨て身の突撃をかけた幸村。武家社会の片隅に追いやられていた彼が戦国最後の戦いで放った一瞬の輝きは、強烈な残像となって同時代の人々の脳裏に焼き付けられ、時を経て今なお私たちの心をゆさぶり続けています。

幸村の活躍は、彼とともに生きた人物とあわせてとらえることで、いっそう鮮明になります。こうした関心のもと、本展では幸村と直接・間接を問わずにかかわり、影響を与えあった人たちを取り上げ、それぞれの経歴や、幸村や真田家との関係をうかがわせる多彩な資料を紹介します。

こうした人たちは地位や立場に違いはあっても、みな幸村と同じく、この世にみずからの居場所を見つけるべく、懸命に日々を過ごしています。本展を通じ、幸村が生涯を送った激動の時代の人間像に迫りたいと思います。

 

主催 大阪城天守閣

共催 NHK大阪放送局

協力 大河ドラマ「真田丸」大阪推進協議会

 

◆出品目録(出品点数 106点)

特別展「真田幸村の生涯を彩った人たち」出品目録(PDF)

 

◆主要展示品解説

(てつ)二枚(にまい)(どう)具足(ぐそく)

〈1領 大阪城天守閣蔵〉

真田幸村所用として和泉国(大阪府南部)の尼寺に伝来した。胴は正面に(しのぎ)を立てた鉄板製で、ヨーロッパの甲冑を強く意識した作りである。手の甲を保護する「手甲(てっこう)」には、真田家の家紋「(ろく)連銭(れんせん)(もん)」(六文銭)が打ち出されている。

真田幸村は、信濃国上田城主真田昌幸の次男。(いみな)は「信繁」だが、一般に「幸村」の名で知られる。慶長5年の関ヶ原合戦の際、上田城に攻めてきた徳川秀忠の大軍を父とともに撃退する。しかし本戦での徳川方の勝利により、昌幸・幸村は高野山に流され、間もなく九度山(くどやま)に移り蟄居(ちっきょ)した。同19年、豊臣秀頼に招かれて大坂城に入り、冬の陣では、城の南東に築いた真田丸で徳川勢を迎え撃って散々に苦しめ、退却させた。翌年の夏の陣では、家康本陣をおびやかすも衆寡敵せず、松平(ただ)(なお)配下の手にかかり果てた。

六連銭文は真田家の家紋で、絵柄は葬送の際ひつぎに六枚の(ぜに)を納めた習俗に由来する。銭は死者が冥界に旅立つ際の旅費、またその途中に流れる「三途(さんず)の川」の船賃と理解された。

冥福への願いを強くにじませるこの家紋は、元来信濃の名族海野(うんの)氏の家紋だった。真田家は海野氏の分流の一つだったが、幸村の祖父の代から海野氏嫡流を称しこの家紋を使用した。

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大坂(おおさか)(ふゆ)陣図(じんず)

〈1枚 富山・津田家蔵〉

料紙に墨で簡略に記した大坂城付近の見取り図。手前(北)から奥(南)にかけ「大坂本城」「真田出丸」「篠山」「この((木野))村」「おか((岡))山」「てんわうし((天王寺))」「ひらの((平野))」「ちやうす((茶臼))山」といった場所が示され、城から真田出丸まで1町半(約160メートル)、出丸から木野村まで7町(約760メートル)、木野村から岡山まで2町(約220メートル)と距離が示される。また真田出丸の南には「この所鑓場の様に承り及び候」(この所が戦闘場所だったと承っています)とある。慶長19年(1614)12月4日の真田丸の戦いからほどない時期に作られたきわめて珍しい資料である。

本品を伝えた津田家は加賀藩前田家の家臣である。冬の陣に参戦した当時の藩主前田利常ははじめ岡山に陣を置いたが、12月4日に将軍徳川秀忠が岡山に本陣を定めたことから真田丸近くに迫り、その日に起きた真田丸の戦いに井伊(いい)(なお)(たか)隊、松平忠直隊などとともに参加した。

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写真提供:富山市郷土博物館

 

■重要文化財 大坂(おおさか)(なつ)陣図(じんず)屏風(びょうぶ)

〈6曲1双 大阪城天守閣蔵〉

大坂夏の陣最後の決戦となった慶長20年(1615)5月7日の模様を描いたこの屏風絵は、徳川方として参戦した筑前国福岡藩主黒田長政が戦勝記念に描かせたとされる。だが絵柄から徳川方勝利の歓喜を読み取るのはむずかしい。

右隻は、右側が南から攻めあがる徳川方、左側が豊臣方で、戦いはほぼ互角である。両軍が激突する中心部には極楽への入口と信じられた四天王寺西門(さいもん)の石鳥居があり、その下に陣取る真田幸村隊は、采配をふる幸村だけでなく、息子の大助も後方に描かれている。

いっぽう左隻には落ちのびる豊臣方敗残兵や市民の苦難があらわされる。右隻が華々しい合戦の表舞台だとすれば、左隻は狼藉や略奪が横行する舞台裏。大坂城は左右あわせた全体のほぼ中央に位置し、天守の窓には戦況を見つめ涙する女性たちの姿が確認できる。

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大坂夏の陣図屏風より 真田幸村(右)と真田大助(左)

 

(のぼり)梯子(ばしご)(もん)(かわ)(づつみ)二枚(にまい)(どう)具足(ぐそく)

〈1領 大阪城天守閣蔵〉

真田幸村の兄、信之のよろい。胴は革包の胴に昇梯子の文様をあしらう。この意匠は現存する父昌幸所用の具足と同じで、昇梯子文は「高いところにのぼる」つまり立身出世をあらわすめでたい図柄である。

信之は真田昌幸の長男で(いみな)ははじめ「信幸」。豊臣秀吉に臣従し、天正18年(1590)に上野国沼田城主となる。秀吉没後、慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原合戦では、居城の上田城に引き上げた昌幸・幸村と別行動をとり、徳川家康に協力して戦功をあげた。戦後は父の旧領が加えられて信濃国上田城主となる。大坂の陣を経た元和8年(1622)に同国松代(まつしろ)に転封となり、明暦2年(1656)に引退。2年後、93歳の高齢で死去した。

本品の付属資料によると、このよろいは信之が若い頃に着用していたもので、懇意にしていた江戸時代前期の大老酒井(ただ)(きよ)の子忠挙(ただたか)具足(ぐそく)(はじめ)の折に贈られたものという。手甲(てっこう)胸板(むないた)にほどこされた剣片喰(けんかたばみ)(もん)は酒井家の家紋なので、これは譲られたのちに加えられたとみられる。徳川政権のもと大名の地位を確保した信之の、幕府首脳との親密な交際を物語る遺品である。

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■長野県宝 石田三いしだみつなり書状しょじょう (慶長5年)7月晦日付 真房州宛

〈1通 長野・真田宝物館蔵〉

  石田三成は幼少時から豊臣秀吉に仕え、側近として活躍した人物。戦場での指揮よりも兵站(へいたん)部門、また内政全般にわたって活躍し、豊臣政権の基盤確立に貢献した。文禄4年(1595)に近江国佐和山(さわやま)城主となり、秀吉晩年には五奉行の一人となって政権運営の中心人物となる。秀吉没後は徳川家康の勢力拡大を警戒し、慶長5年(1600)に反家康を掲げて挙兵。関ヶ原における9月15日の決戦に敗れ、処刑された。

これは慶長5年7月30日、反家康を掲げて決起した石田三成が真田昌幸に送った書状。決起の意向を伝えた先の三成書状に対し、昌幸は7月21日の返書で三成に不満を表明したらしい。本状ではそれを受け、家康が大坂にいる間は本心を伝えることができなかったのだ、と弁解している。

続いて三成は、上方で反家康勢力の糾合が進み、事態が自分たちに有利に運んでいることをいくつもの具体的な例をあげて述べた。そして、上杉景勝のいる会津への連絡役を昌幸に果たしてほしいと要請し、息子の信之・幸村兄弟へもよろしく伝えてほしいと述べる。

この時点で三成は、昌幸が自分たちに味方したとはまだ確信していない。だからこそ彼は、昌幸に協力を決意させるための根拠を豊富に示したのである。

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(末尾部分)

白地(しろじ)黒釣鐘旗(くろつりがねはた

〈1旈 仙台市博物館蔵〉

伊達家重臣で白石城主であった片倉家の軍旗。白地に大きく黒い釣鐘を描く。伊達政宗の名臣として有名な片倉小十郎景綱の異父姉で、伊達政宗の乳母であった喜多が考案したと伝えられる。「黒釣鐘」の文様には、釣り鐘が鳴り響くように片倉の家名を天下に轟かせよ、との意味が込められているという。景綱はこの軍旗を(ひるがえ)して伊達軍の先鋒を務め、数々の戦功を挙げた。

 その景綱の嫡男が片倉重綱である。彼が慶長19年(1614)の大坂冬の陣で伊達隊先鋒を命ぜられたとき、父景綱から政宗の面前でこの軍旗を与えられたと伝えられる。翌年の夏の陣でも重綱は伊達隊の先鋒をつとめ、道明寺合戦にて後藤又兵衛を打ち破った。「大坂夏の陣図屏風」でも、この軍旗が伊達隊の先頭を進む様子が描かれている。

重綱はのちに真田幸村の娘を後妻に迎えた。

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開催日時 平成28年10月8日(土)~11月27日(日)
開催場所 大阪城天守閣3・4階展示室

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