大阪城天守閣にて“大坂幕府”構想について記した小堀遠州書状を初公開します

小堀遠州書状(寛永3年)12月17日付 藤堂高虎宛〈個人蔵〉

大阪城天守閣では平成31年1月26日(土曜日)から3月19日(火曜日)まで、天守閣内4階展示室において、徳川幕府による大坂城再築の作事奉行だった小堀(こぼり)遠州(えんしゅう)が“大坂幕府”成立の見込みを記した書状を初公開します。

 

 この書状は大坂城再築工事中の寛永3年(1626)、徳川大坂城の基本設計を担当した藤堂(とうどう)高虎(たかとら)に送られたもので、江戸時代が“大坂時代”となっていた可能性を伝える興味深い史料です。

 

 

公開概要

 

1.展示期間           平成31年1月26日(土曜日)から3月19日(火曜日)まで

2.時間                  9時から17時まで

                            注)入館は閉館の30分前まで

3.会場                  大阪城天守閣4階展示室

                            〒540-0002 大阪市中央区大阪城1番1号

                            電話:06-6941-3044 ファックス:06-6941-2197

                            ホームページ:https://www.osakacastle.net/

4.入館料           大人600円 中学生以下、大阪市在住65歳以上の方(要証明)、障がい者手帳等ご持参の方は無料

 


 

小堀遠州書状 (寛永3年)12月17日付 藤堂高虎宛               1幅

                                         個人蔵

 

【概要と要点】

 小堀遠州が伏見奉行に在職中、寛永3年(1626)の12月17日付けで江戸にいる義父の藤堂高虎へ送った書状。本文(日付・差出・宛名を除く)は1042文字の長文。本紙寸法は約17cm×245cm。

 この前月に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)東福門院(とうふくもんいん)和子(まさこ)とのあいだに高仁(すけひと)親王(しんのう)が誕生したことをうけ、藤堂から依頼されていた朝廷への祝儀進上の完了を報告したり、大御所徳川秀忠の上洛予定について質問したり、また、小堀が造園を担当することになった大坂城内の茶庭にすえる石の献上を藤堂に勧めているのが、主たる内容。

 小堀が藤堂に大坂城の庭石の献上を勧めるくだりで「大坂は、ゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と述べている。すなわち、大坂城が将来的には大御所秀忠や将軍家光の御居城になる、幕府の本拠地が江戸から移って“大坂幕府”になるはず、という見込みを記している点が注目される。

 

【小堀遠州と藤堂高虎】

小堀遠州(天正7年[1579年]~正保4年[1647年])

 造園や建築にすぐれた能力を発揮した才人で、遠州流茶道の始祖としても有名。一方、伏見奉行を務め、近江国の広域行政に携わるなど、幕府の有能な官僚でもあった。

 徳川大坂城の再築においては建築工事(作事)の奉行に任命され、天守や櫓、御殿、城門などの建設を指揮した。

 寛永3年(1626)には数え48歳。藤堂高虎の養女を正妻としていた。

 

藤堂高虎(弘冶2年[1556年]~寛永7年[1630年])

 伊勢国津藩主。徳川家康から厚く信頼され、2代将軍秀忠にも重んじられた。秀忠の娘、東福門院和子の入内(じゅだい)にあたっては朝廷との交渉役をつとめた。築城の名手として知られる。

 徳川大坂城の再築においては基本設計(縄張(なわばり))を担当。また土木工事(普請)の監督を依頼された。

 寛永3年(1626)には数え71歳。

 

 

【徳川大坂城】

 2代将軍徳川秀忠が大坂城の再築を発令。大坂夏の陣の5年後、元和6年(1620)に工事がはじまり、寛永6年(1629)に完工した。石垣もすべて根石から築きなおされ、豊臣大坂城は地中に埋められた。工事には64家の大名が動員された。この間、元和9年(1623)に家光が将軍となったが、大坂築城工事については大御所の秀忠が指揮をとった。

 完成した徳川大坂城は、江戸城よりも「ずっと美しく、いっそう堅固」と評された(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』)。

 寛永3年(1626)には小堀の指揮のもと、天守や御殿など本丸の建築物が建設された。

 

 

【大坂幕府構想】

[構想の由来]

 すでに徳川家康が慶長20年(1615)の大坂夏の陣後、大坂への幕府移転を構想していた形跡がある。夏の陣直後に上洛した薩摩の島津家久が、大坂城を将軍秀忠の居城とする予定を幕府の要人たちから聞かされていた(『薩藩(さっぱん)旧記(きゅうき)増補(ぞうほ)』)。しかし翌年に家康が没したこともあり、このときの計画はいったん棚上げにされたと考えられる。

 小堀書状の記述によって、家康生前の大坂幕府構想が大坂城再築の時期まで根強く残り、秀忠周辺で選択肢の一つとして検討されていた可能性が想定できる。

[構想の実現性]

 傑出した芸術的才能をもち、有能な官僚でもあった小堀は幕府上層部とのつきあいも深い。藤堂も大御所秀忠から信頼され、近しい関係にあった。そして小堀は作事奉行として、藤堂は基本設計の担当者として、大坂城再築に深く関与していた。このような二人のあいだで大坂幕府構想が語られ、了解事項となっていたことからすると、構想には十分に現実味があったと評価できる。

[大坂に幕府を置く意味]

 豊臣秀吉没後、秀頼時代の大坂を訪れたスペインの政治家ドン・ロドリゴは、ここを「日本国中最も立派なる所」と評した。イギリスの貿易商リチャード・コックスによれば、大坂の陣直前の段階でも大坂城は「日本の最も堅固なる」城だった。為政者が日本一の繁栄を誇り、日本一の要害である地を本拠にしたいと望むのは自然である。

 また室町幕府以降、武家政権は朝廷と一体化し、天皇の権威をもりたてる姿勢を示すことで統治者としての正当性を獲得していた。このような状況からすれば、武家政権の本拠は首都あるいはその近くに置かれる畿内政権が基本形となる。徳川家も秀忠の娘和子を後水尾天皇のもとに入内させ、朝廷との一体化を志向していた。

 こうした事情から家康や秀忠も、大坂に幕府を置くことを検討したと考えられる。

[構想の消滅]

 大坂城再築完了の3年後に秀忠が没したことや、本拠地移転の大事業を敢行する必要がないほどに江戸の幕府が定着してきたことが理由で、大坂幕府構想は実現しなかったと考えられる。

 

小堀遠州書状(寛永3年)12月17日付 藤堂高虎宛〈個人蔵〉

小堀遠州書状 (寛永3年)12月17日付 藤堂高虎宛 〈個人蔵〉

 

釈文(PDF:145KB)

現代語訳(PDF:164KB)

 

 

開催日時 平成31年1月26日(土)~3月19日(火)
開催場所 大阪城天守閣 4階展示室

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