3・4階 テーマ展「浮世絵師が描いた乱世」
テーマ展チラシ表

大阪城天守閣は、平成30年3月17日(土)から5月6日(日)まで、天守閣内3・4階展示室において「テーマ展 浮世絵師が描いた乱世」を開催(平成30年2月7日報道発表済)するにあたり、本展の詳細が決まりましたのでお知らせいたします。

 

幕末から明治期にかけて、戦国武将たちや合戦を主題とした武者絵が浮世絵師によって多く描かれました。それらは多色刷りの木版画、すなわち錦絵のかたちで出版され、おおいに庶民の人気を博しました。本展では大阪城天守閣の収蔵品のなかから、色鮮やかで躍動感あふれる武者絵の数々を紹介します。

このたび、本展の詳細が決まりましたのでお知らせいたします。

幕末から明治期にかけて、戦国の武将や合戦を主題とした武者絵が浮世絵師によって次々と生み出されました。それらは多色刷りの木版画、すなわち錦絵のかたちで出版され、庶民のあいだでおおいに人気を博しました。

そこに描かれている内容は、多くが軍記物と呼ばれる江戸時代の歴史小説に取材したもので、史実そのままとはかぎりません。しかしこうした作品から私たちは、幕末・維新前後の人々の歴史観や社会観、人間観をうかがう手がかりを得られるはずです。

江戸時代の人々は、なぜ秀吉の伝記物語を好んだのでしょうか。明治期になって、人々はどのような思いで徳川幕府の創業史をとらえなおしたのでしょうか。そもそも人々は、どんな歴史物語を愛したのでしょうか。

浮世絵師たちの作品は、軍記物のさし絵レベルにとどまるものではありません。表現方法に工夫がこらされ、高い芸術性をそなえたものが少なくないのです。

本展では大阪城天守閣の収蔵品のなかから、色鮮やかで躍動感あふれる武者絵の数々を歴史エピソードとともに紹介します。

 

◆出品点数 59点

 

テーマ展 浮世絵師の乱世 出品リスト(PDF)

 

◆主要展示品解説

 

1 『新形三十六怪撰(しんけいさんじゅうろっかいせん)』武田(かつ)千代(ちよ)、月夜に老狸(ろうり)(うつ)の図(出品番号3)

月岡(つきおか)(よし)(とし)

浮世絵の終末期に大活躍した月岡芳年は、「最後の浮世絵師」と称されている。「残酷絵」・「血みどろ絵」などともいわれる刺激的な画風が評判をとったが、それにとどまらず、多様なジャンルで才気あふれる作品を発表した。

『新形三十六怪撰』は妖怪や幽霊の伝説に取材したシリーズで、明治25年(1892)に54歳で没した芳年の最晩年の名作である。

本図の主人公は、「勝千代」と呼ばれた少年時代の武田信玄。遊んでいると、とつぜん木馬がしゃべりだし、「軍法と剣術、いずれが妙(すぐれている)か」と問うてきた。勝千代は動じず、「いずれも妙なり。これが剣術の妙ぞ!」と答えると同時に刀で木馬を切りふせる。その正体は老いたタヌキだったという。

木馬の躍動が印象的な、芳年51歳の作品。

3 N2148 (1038x1500)

 

 

2 『古今(ここん)名誉(めいよ)美談集(びだんしゅう)』上杉輝虎謙信(出品番号9)

初代山崎(とし)(のぶ)

月岡芳年の門人、初代山崎年信が描いた上杉謙信。明治11年(1878)の刊行で、年信22歳の作品。年信は青物問屋の息子だが、14歳のころ、ちょうちん屋の小僧として修行中に祭の行灯(あんどん)に描いた絵が評判となり、芳年への入門が認められたという。本図の前後数年間が錦絵師としての本格的な活動時期で、ほどなく芳年との確執をへて師のもとを離れ、さらには芳年の作品を持ち逃げする事件などもおこす。30歳で病没。

本図は謙信と信玄の一騎打ちで知られる永禄4年(1561)の第四次川中島合戦の一場面。

武田方の海津城を攻略すべく妻女山(さいじょさん)に陣取る謙信に対して、信玄は別働隊をもって妻女山に早朝の奇襲をかけ、残る本隊が敗走してくる上杉勢を待ち伏せする作戦をたてた。しかし謙信は夜のうちにこれを見破り、大かがり火をたいて山上に上杉軍が布陣しているように偽装しつつ、夜中ひそかに山をおりる。千曲川を渡って、武田軍の陣所近くで夜明けを待った。早朝の濃霧が晴れるや攻撃を開始。別働隊を割いたため手薄となっている信玄の本隊を相手に序盤戦を有利に戦い、多くの有力武将を討ち取ったという。

本図は決戦前夜、謙信が武田方の海津城から食事のしたくの煙がたちのぼるのに不審を抱き、信玄の翌朝の奇襲作戦を察知するところ。

9 N2163 (1033x1500)

 

 

3 『大日本(だいにっぽん)名将(めいしょう)(かがみ)』織田右大臣平信長(出品番号17)

月岡芳年画

奇才月岡芳年が描いた信長。連作『大日本名将鑑』の1枚で、明治11年(1878)の刊行。

場面は、信長が炎につつまれ最期を迎える本能寺。さすが芳年の構図はダイナミックで、画面には緊迫感がみなぎる。主人公を後方からとらえたアングルも、芳年らしい趣向である。

信長は天正10年(1582)6月2日の未明、京都・本能寺の宿所を家臣の明智光秀に急襲された。騒々しい物音で目をさました当初は家臣たちのけんかかと思ったが、鉄砲の音で襲撃をさとり、みずから弓をとり槍をもち、防戦のすえ火中で自害をとげた。

16 N2134 (1009x1500)

 

 

4 清須(きよす)(じょう)(わり)普請(ぶしん)(出品番号25)

歌川(くに)(よし)

斬新な構想力を広いジャンルで発揮し、幕末期の浮世絵界と社会に刺激をあたえた歌川国芳。なかでも絶賛されたのは武者絵で、在世当時から「武者絵の国芳」と称された。本品は寛政9年(1797)から5年がかりで刊行された秀吉の伝記小説『絵本太閤記』から、清須城割普請の場面をとりあげる。

信長の清須城の塀と石垣がくずれ、修復工事がはじまったのだが、20日たっても終わらない。見かねた秀吉は、3日で完成させると信長に約束。普請奉行に任命された。職人たちを酒肴でもてなし、治国のため急ぎ修復が必要な事情をこんこんと説き、賞金も提示。持ち場を分担して集中させる「割普請」工法により、約束どおり工事を終えた。

図の右手で馬に乗るのが信長で、中央下部、ひざまずき信長に向きあっているのが秀吉。近世の武士の名を記した絵を禁じる幕府の出版統制令を回避するため、図中で信長は「大多春永」、秀吉は「中浦猿吉郎」と注記されている。

徳川幕府に反抗心をもっていた国芳は、太閤秀吉伝説に取材した作品を多く描いた。「芳」の字を豊臣家の桐紋にデザイン化した印章を用いた。

24 tenshu-e006(3) (703x1000)24 tenshu-e006(2) (720x1000)24 tenshu-e006(1) (711x1000)

 

 

 

5 『日本(にほん)略史図(りゃくしず)』真田左衛門幸村・徳川家康公(出品番号57)

2代長谷川貞信画

明治期の大阪で活躍した2代長谷川貞信による明治11年(1878)の作品。

大坂夏の陣において、真田幸村が徳川家康を追いつめたさいの伝説が描かれている。

上部の説明文によると幸村は合戦中、しばしば家康への狙撃をこころみたが、成功しなかった。とうとう騎馬で追いつめたところ、不思議な(うん)()にさえぎられてしまう。投げつけた手槍(てやり)の先にいるはずの家康は、すでに姿を消していたという。

豊臣びいきの大阪の絵師が描き、大阪で出版された作品だが、幸村の健闘よりも、なぞめいた家康の神聖さを強調する内容となっている。

なお、夏の陣で幸村が本陣を置いた(ちゃ)臼山(うすやま)に隣接する一心寺には、境内に「霧降(きりふり)の松」の古株が残り、この松が霧を吹き出し家康を隠したと伝えている。

58 N2827(P) (889x1300)

 

 

開催日時 平成30年3月17日(土)~5月6日(日)
開催場所 大阪城天守閣 3・4階展示室

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