大阪城天守閣


特別展 幕末大坂城と徳川将軍
特別展 幕末大坂城と徳川将軍

大阪城天守閣では、平成29年10月7日(土曜日)から11月26日(日曜日)まで、天守閣内3・4階展示室において「特別展 幕末大坂城と徳川将軍」を開催します。

今年と来年は、徳川慶喜による大政奉還の表明、王政復古の大号令による新政府発足、新政府軍と旧幕府軍による内戦「戊辰戦争」の勃発という、明治維新の一連の大変革からちょうど150年にあたります。そこで本展では幕末の大坂城に光をあてることとし、14代将軍家茂、最後の将軍慶喜が何度も訪れた頃の大坂城の姿、彼らの大坂城を舞台とした活動を紹介し、武家政権の最終章ともいうべき時代を浮き彫りにしたいと思います。

 

【開催概要】

大坂城は、元和5年(1619年)に幕府直轄となって以来、幕府による西国支配の拠点としての役割を果たしてきました。ところがこの「徳川将軍の城」大坂城に将軍が訪れることは、3代将軍家光以来久しくありませんでした。

幕末になると、内政の行きづまりや開国を契機とした混乱などにより、幕府の権威は失墜します。そうした中、建て直しをはかる幕府は大坂城の重要性を改めて見直し、14代将軍家茂、続いて最後の将軍慶喜が何度も訪れ、活発な政治活動をくり広げました。

家茂・慶喜が訪れた幕末の大坂城はどのような姿をしていたのでしょうか。彼らは大坂城で何をし、何を考えたのでしょうか。そして大坂城はどうなったのでしょうか。幕末動乱の舞台といえば京都や江戸を思い浮かべますが、この展覧会を通じ、武家政権の最終章における大坂城の存在に改めて注目していただきたいと思います。

 

出品点数        114点

出品目録(PDF)

 

●主要展示品解説

1 幕末大坂城湿板写真 本丸東側諸櫓  〈大阪城天守閣蔵〉

将軍徳川家茂が大坂城を拠点に第2次長州戦争の指揮をした慶応元年(1865年)から翌年までの間、幕府は大坂城の本丸・二の丸周縁部の櫓や塀などの撮影を行った。現存するガラス原板の内、6枚を大阪城天守閣が、49枚を宮内庁書陵部が所蔵しており、いずれも江戸時代の大坂城を撮影した最古の写真である。

これは大阪城天守閣所蔵のもので、城内二の丸の南東、雁木坂の下りぎわ付近から北方向を望んだもの。本丸東側の石垣上に建つ4棟の内、いちばん南の櫓をのぞく3棟の櫓が一枚に収まっていて迫力がある。手前は武具奉行が管理し、徳川家康の馬印が納められた「馬印(うまじるし)(やぐら)」、中央は鉄砲奉行が管理する「月見櫓」、奥は蔵奉行が管理する「糒櫓(ほしいいやぐら)」である。建物はいずれも戊辰戦争の大火で焼失した。

石垣は城内で最も高く、馬印櫓付近の石垣は根石(基礎)から約34メートルに達する。

本丸東側諸櫓

 

2 江差町指定有形文化財 開陽丸引揚品 砲弾類(滑腔榴弾(かっくうりゅうだん)()(じょう)榴弾(りゅうだん)()条中(じょうちゅう)実弾(じつだん)

〈北海道・江差町教育委員会蔵〉

開陽丸は幕府がオランダに発注し建造された軍艦。明治元年(1868年)、戊辰戦争の戦端を開いた鳥羽・伏見の戦いにおいて、旧幕府軍は陸上では新政府軍に敗北したが、大坂湾の海上では開陽丸を旗艦とする旧幕府艦隊が薩摩軍を圧倒した。その後、開陽丸は大坂城を脱出した徳川慶喜を江戸へ送り届け、慶喜の恭順姿勢に反発する旧幕府兵を乗せ東北・北海道方面へ転戦した。しかし北海道江差の攻撃に参加した後、同地で座礁、沈没した。

これらは江差沖に沈んだ開陽丸から主に戦後の調査によって回収された膨大な量の砲弾の一部。滑腔榴弾(球形のもの)は直径15.5cm、重さ約10kg。施条榴弾(先端に穴の開いたもの)は高さ32.0cm、直径15.5cm、重さ約25kg。施条中実弾(先端のとがったもの)は高さ45.5cm、直径15.5cm、重さ約50kg。前二者は炸裂して敵艦の乗員を殺傷するものであり、施条中実弾は主に船体の破壊を目的としている。また後二者は先のとがった形状や砲身内側のらせん状の溝(ライフリング)によって命中精度が向上している。

本展では砲弾3種を1点ずつ展示する。

江差町指定有形文化財 開陽丸引揚品 砲弾類(滑腔榴弾・施条榴弾・施条中実弾)

 

 

3 土方歳三書状(安治川口布陣図書き込み)

〈 東京・高幡不動尊金剛寺蔵〉

京都の治安維持活動に従事する新選組は、元治元年(1864)正月、2度目の上洛のため海路大坂へ向かう将軍徳川家茂の警固を命じられ、大坂の安治川河口付近に駐屯した。本品は同年正月10日、新選組の土方歳三が郷里の母方の親戚・平忠右衛門らに宛てた年賀状。歳三はこれに安治川口の警備配置図を添えた。図中では紀州藩、彦根藩など諸藩兵の駐屯する中に、「誠」の旗と「松平肥後守御預新選組百人」の表記で自分たちの位置を示している。左奥の「御城」とは大坂城のこと。

土方歳三書状(安治川口布陣図書き込み)_1

 

土方歳三書状(安治川口布陣図書き込み)_2

 

 

4 軍帽

〈静岡・久能山東照宮博物館蔵〉

徳川慶喜所用の軍帽で、フランス皇帝ナポレオン3世(1808年~73年、在位1852年~70年)から贈られたと伝えられる。パリ・リシュリー通りのダッシェー社製。フランス陸軍の将官用と考えられる。昭和50年8月、慶喜の曽孫にあたる徳川(よし)(とも)氏によって久能山東照宮に奉納された。

金モールで装飾した()羅紗(らしゃ)製で、(ひさし)を黒革とし、黒羅紗の(ふち)には草花文が施される。

幕末期、幕府はフランス公使レオン・ロッシュと親密な関係を構築し、慶喜はロッシュから支援を得て、幕府再建に取り組んだ。

軍帽

 

 

5 『絵入りロンドンニュース』より 大坂城におけるパークスと徳川慶喜の会見

〈 大阪城天守閣蔵〉

『絵入りロンドンニュース(イラストレイテッド・ロンドン・ニュース)』の1867年8月24日号に掲載された挿絵で、慶応3年(1867年)3月28日に大坂城本丸御殿大広間で行われた将軍徳川慶喜とイギリス公使ハリー・パークスとの会見の様子を描く。この日慶喜は、フランス・オランダの公使とも会見し、各国に兵庫開港を宣言した。

 『絵入りロンドンニュース』は1842年にイギリスで創刊されたタブロイド判の週刊新聞で、多くの挿絵を載せ、わかりやすくニュースを伝えた。同紙上では、幕末頃の日本の情勢も逐一報道された。2003年、『絵入りロンドンニュース』はついに廃刊となり、160年の歴史に幕を閉じた。

『絵入りロンドンニュース』より 大坂城におけるパークスと徳川慶喜の会見

 

 

6 サットン撮影写真 本丸御殿大広間

〈原品、金沢美術工芸大学蔵〉

イギリスの軍人ウイリアム・サットンが慶応3年(1867年)に撮影した大坂城本丸御殿の写真。大坂城の本丸御殿を鮮明にとらえた写真は、現在のところ本品が唯一である。

右手前が大広間で、巨大な屋根と三葉葵紋の破風飾りが印象的である。この年の3月から4月にかけ、この大広間を会場に慶喜と諸外国公使との公式会見が行われた。その奥は大広間よりやや規模の小さい白書院である。白書院は公式会見に先立つ非公式会見の会場として使われ、ここでフランス料理が振る舞われた。

慶喜が将軍として諸外国をもてなしたこれらの建物は、すべて翌明治元年(1868)に起きた戊辰戦争の大火で焼失した。

本展では原品の写真を複写拡大し、展示用タペストリーにて展示する。

サットン撮影写真 本丸御殿大広間

 

 

開催日時 平成29年10月7日(土曜日)~11月26日(日曜日)
開催場所 大阪城天守閣3・4階展示室

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