幕末・維新150年とは? | 幕末・維新150年

時代の転換を目撃し、生きた人々

江戸時代、大坂は江戸や京都と同じく幕府の直轄都市で、大坂城は将軍の城でした。

嘉永7年(1854)、アメリカ合衆国ペリー艦隊が浦賀に来航した翌年、ロシアのプチャーチンが天保山沖に来航し、大坂の人々を驚かせました。安政5年(1858)に幕府が欧米各国と通商条約を結ぶと国内では尊王攘夷運動が巻き起こり、京都だけでなく大坂でも志士が活動し、取り締まる幕府との間で激しい衝突が起きました。

元治元年(1864)、幕府は敵対する長州藩の討伐を決定し、大坂城を拠点に戦闘態勢を整えました(第1次長州戦争)。これは長州藩の降伏により戦闘開始には至りませんでしたが、ほどなく同藩は対決姿勢を再び強め、慶応2年(1866)に戦闘が始まりました(第2次長州戦争)。14代将軍徳川家茂は大坂城において指揮をとりましたが、同年7月に死去してしまいます。

将軍職を継いだ徳川慶喜は、大坂城に各国公使を招くなど積極的な外交活動を展開しました。しかし慶応3年(1867)10月の大政奉還、12月の王政復古によって徳川家の政権参加が否定されると、慶喜は巻き返しをはかるべく大坂城に入り、翌慶応4年(1868)1月に軍勢を京都に差し向けました。しかし旧幕府軍は敗北して慶喜は城を脱出。大坂城において慶喜が政権奪回への意欲をうしなった時、幕府は滅亡したのです。

大阪を制圧した新政府は、ここを近代国家の中心地にしようと様々な試みを実行します。明治天皇が京都を出て行幸し、新しい国家の主権者としての活動を始めた場所も大阪でした。川口が海外貿易の港として開かれ、大阪城は近代陸軍の本拠となり、城の周辺には西洋式の学校や病院が開設されました。時代の大きな変わり目に遭遇した大阪の人々は、その激しさに驚き戸惑いながらも、自立心や向上心、そして持ち前の柔軟な合理的精神をもってたくましく生き抜きました。

デザインコンセプトとキャッチコピーについて

幕末・維新(明治維新)とは、260年続いた江戸幕府が倒れ、日本が近代国家に生まれ変わった一連の政治過程のことをいいます。上部の二つの丸は、徳川政権と維新政権という新旧の体制の交代を暗示するものですが、当時は幕府自身も近代国家建設の主導権を握ろうとしていたことから、双方が新しい時代にむけて激しく競り合う様子を示したもの、とも読むことができます。

幕末になると14代将軍家茂、15代将軍慶喜が何度も大坂城に入城して政治を行いました。下の写真はそのころの本丸を撮影したもので、明治維新の戦火で焼失するわずか数年前の大坂城の威容を示しています。最後の将軍徳川慶喜は「王政復古の大号令」による新政権発足をくつがえすべく、大坂城から京都に軍勢を差し向け、敗れて戦意を喪失し城を脱出しました。彼が政権奪還をあきらめたことで、幕府はその後の江戸開城を待つまでもなく滅亡したのです。つまりキャッチコピーにある通り、大坂城は幕府の終幕に立ち会った「江戸幕府最後の牙城」だったのです。

●史跡名の用字は常用漢字を優先しています。
●「大坂」「大阪」表記については、便宜上原則として慶応4年(1868)1月9日の大坂城炎上までを「坂」とし、それ以降を「阪」としています。